どんこのアル中 日記

名古屋在住の【年金生活者】。方丈記&徒然草。

あの信長も、神頼み 【どうする家康】

名古屋市民に「熱田さん」の愛称で呼ばれる、熱田神宮。境内には織田信長熱田神宮に寄進した信長塀(築地塀)がある。

永禄3年(1560) 信長は「桶狭間の戦い」出陣の際、熱田神宮に兵を集結させ、戦勝祈願をした。信長が、熱田に兵を集結させたのは、戦勝祈願するとともに、その援助を得るため。織田方3,000の兵の中に、熱田神宮を守る神兵も参加。「熱田の神兵が加わったから、熱田大神が雷雨を降らせて、織田に味方をした」という伝説が今も残る。
桶狭間の戦い」で、義元の首を打ち取った信長は、その戦勝のお礼として、「信長塀(築地塀)」寄進する。後の安土城時代に、自らを神として崇めさせようとした不遜な態度と違う、信心深い信長である。さすがの信長も、若い頃は、「神頼み」であった。

さて、信長塀とは、いかなるものか?

信長塀

土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねて、上に屋根をかけた築地塀と呼ばれる土塀のこと。見た目、「ミルフィーユケーキ」のようである。当時は全長400メートルあったらしいが、現在は120メートル。よくわからないが、西宮神社の大練塀(兵庫)、三十三間堂の太閤塀(京都)と並ぶ日本三大土塀の一つとして有名らしい。日本人は、「三大○○」が大好き。
この信長塀、織田信長の遺産で、愛知県で現存する唯一のもの。清須城から、岐阜城に移る間に、小牧城にしばらく居住する。この小牧城も今は無く、最近発掘調査で、城の石垣の一部が見つかった程度。清須城にいたっては、史実を完全に無視した、金ぴかの天守閣を再現する有様。当然、当時の清須城には、天守閣はない。よつぽど【どうする家康】の清須城の方が、史実に近い。しかし、地方自治体が、史実を完全に無視した建造物を建てるのは、いかがなものか?アホな俺は、清須城には天守閣があるものだと、ず~~~~~~~~~~~~~~~っと思ってた。どうする 清須市閑話休題

信長塀は、おさわり自由で。塀の周囲には、柵などない。さわりたい放題。ふれてみると、なんやらヒンヤリとする。「本能寺の変」で、志半ばで逝った信長の無念を思うと、目頭が熱くなる、わけないか。信長塀をおさわりした後、境内にある「宮きしめん」で「白汁きしめん」を頂くのが、俺のルーチン。通常の「赤汁きしめん」と違い、なんとも上品な趣。よく、新幹線名古屋駅のホームのきしめんが旨いと評判だが、比較にならない。この話は、また、こんど。

白汁きしめん&赤汁きしめん