どんこのアル中 日記

名古屋在住の【年金生活者】。方丈記&徒然草。

日本人は、苦しむために、長生きをしている。【哀愁の入院記⑤】

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入院中、骨折だから、当然、レントゲン検査を数回する。待合室で順番を待っていると、目の前を、もう死んでいるじゃないかと思える老人がMRIの検査室に運ばれていく。入院中、ベットに寝たまま運ばれる老人を何人か見た。多分、みなボケ老人だろう。いずれ、俺もああなるのか、イヤだな思っていると、MRIの検査室の方が騒がしい。患者のボケ老人が暴れている感じだ。
そりゃそうだろう。MRI検査を受けた人ならご存知だろが、結構きつい。強力な磁石と電波を使って、磁場を発生せているので、その騒音がひどい。終始、騒音が続く。検査機器もトンネル状の装置で結構圧迫感がある。俺は、脳梗塞を発症した時、いやほど経験した。ボケ老人には、あの苦痛を我慢せよというのは、無理な話。暴れるも無理はない。(うむ、ちゃんと韻を踏んでいる)
どうやら検査をあきらめたようで、再び、目の前をベットに寝たきり状態のボケ老人が運ばれていく。俺は、ふと疑問に思った。なにゆえに、彼はMRI検査を受けるのか?もし、検査を受けて異常なところが見つかれば治療をするのか?仮に、奇跡的完治した場合、彼は、今後、「なんのために」生きていくのか?
検査に呼ばれたので、検査室に入った。ベットに寝てくれとレントゲン技師が言う。股関節の骨折だから、ベットに寝るのも一苦労だ。はっきり言って「痛い」。それでもレントゲン技師は、次が詰まっているらしく、催促気な、涼しい顔である。この野郎と思った瞬間、先ほどの疑問が解けた。

苦しむために、生きていくのだ。

病気のボケ老人に、まず未来はない。ただ、苦痛と戦い続けながら生きていくしかない。たとえ、本人が死ぬこと希望しても、我が国では、法律が許さない。医学の進歩がそれを支える。よくアルツハイマー認知症の新薬の研究が進んだとかのニュースをよく聞く。はたして、それはいいことなのか?新薬が画期的なものだったとしても、現状維持が精いっぱい。つまり未来はない。そんな研究になんの意味があるのか?本人はともかくアルツハイマーの家族とっては朗報か?介護の苦しさが、いたずらに延長されるという悲しい現実が待っているだけである。まもなく、新年だか、今年も喪中欠礼の葉書が何枚も来た。いずれも80歳以上、半数は90歳以上、中には、100歳以上も珍しくはない。まさに、人生100年時代が実証されている実感。
確かに、医学の進歩はいいことだが、それが人間の幸福につながっているのか?俺には、なんだか逆のような気がしてくる。iPS細胞の研究は、人間の寿命延長には、寄与したが、幸せの延長には寄与していない。不幸の延長に寄与しているのではない?
技術の進歩は素晴らしいが、それに付随する哲学の進歩が追いついていない現状である。「核の恐怖」を身近に感じる時、それは明白である。

いったい、いつまで生きればいいのか?

MRIの検査室で暴れたボケ老人は、それを言っている。なんとも言えない。そんなことを考えながら、放射線を浴びた。俺の股関節の骨密度は、同世代の70%程度。そりゃ、軽く転んだだけで、ポキポキとなるわな・・・。その事実を知っても、骨折は治らない。一生、ビッコで生きていくしかない。今回は、少々、深刻な話になった。反省の日々。