どんこのアル中 日記

名古屋在住の【年金生活者】。方丈記&徒然草。

好きな 文豪っぽい作家の書いた小説10選

はてなブログ10周年特別お題「好きな◯◯10選

【文豪っぽい】と書いたのは、【文豪】の定義がよくわからないからだ。小生が考えるには、みんなが名前を知っている、もう亡くなった偉い小説家というところか・・・。

壱 夏目漱石三四郎
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司馬遼太郎は、明治を明るい時代と言っていた。【三四郎】を読むと実感できる。三四郎が地主の息子という恵まれた設定がそうさせるのだろう。他の明治時代の小説は、貧乏人ばかりで気が滅入る。貧乏人は、貧乏人が嫌いだ。小生は、貧乏人だ。三四郎は、充分な仕送りをもらっているので、おねえちゃんにもデレデレできる。ライスカレーやサンドイッチを食べているし、団子坂の菊人形見物にも気軽に行ける。貧乏人だらけの当時の庶民の生活を比べると雲泥の差である。当時の農村の子どもたちは、草鞋も履けず、裸足であったというから驚きだ。それに比べ、三四郎はお気楽さんのまさに、お【坊ちゃん】である。ラストシーンで「straysheep」を繰り返す三四郎は、ジェームズ・ディーンだ。いつの時代もお金持ちはいいなぁ~としみじみ想う。小生も三四郎のような、お金に苦労しない明るい大学時代を満喫したかった。


弐 太宰治富嶽百景
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「富士には月見草がよく似合う」太宰は、現代に生まれたなら、優れたコピーライターになったと思う。

私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。

キャッチコピーもイケるが、ボディコピーも遜色ない。当たり前か、文豪だもの。この小説は、太宰の小説の中では、明るい印象を持つ。【走れメロス】のような恥ずかしさもない。小生は、とにかく明るい小説が好きだ。暗い小説を読んでいると自分もなんだか沈んだ気持ちになり、途中で本を投げだす。この小説は、めずらしくポジティブシンキングの太宰がいる。小生は、そんな太宰が好きだ。【人間失格】より【富嶽百景】である。


参  芥川龍之介【蜜柑】
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この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。

芥川は、汽車の中で出会った少女のことを、ぼろ糞に書いている。何もそこまで言わなくてもいいだろうくらいに滅茶苦茶に書いている。嫌味なインテリだ。小生は、こういう輩が大嫌いだ。偉そうに、てめえは、何様だ。しかし、小生の怒りは、一瞬にして消える。芥川も同様だ。その理由は、蜜柑である。これから奉公に行くであろう少女が、見送り来てくれた弟たちに、汽車の窓から投げた蜜柑の鮮やかな色である。その色が芥川の胸を射り、小生の胸を刺した。

私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

こういうことって、あるよなぁ~としみじみした。色である。鮮やかな色が不快な感情を一瞬にして消し去る。晴れ渡った青空、皆が待ちわびる桜、したたり落ちるような新緑、血のような真っ赤な紅葉、一夜にして真っ白になったラグビー場。私たちの生きている世界は美しいのである。


死 中島敦【李陵】
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中島敦は、1909年生れ。なんと太宰治松本清張とタメである。お気に入りの三人である。この事実を知った時、小生は驚愕した。何故か。まったく別の時代に生きていたという印象が強いからだ。活躍していた時期が違うせいである。松本清張82歳、太宰治38歳、中島敦33歳で逝く。小生は、長寿否定論者だが、この事実を知った時、「長く生きるのも悪くないなぁ~」と思った。

涙をためながら「書きたい、書きたい」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられている。

もう少し、長生きしていれば、と思うと残念でならない。この【李陵】も、没後に発表されている。。【山月記】【名人伝】【牛人】など、珠玉の短編も捨てがたいが、ナンバーワンは、やはり【李陵】にとどめを刺す。李陵、司馬遷、蘇武の三人が主要人物として登場する。なんとも魅力的な三人である。タイトルは、【李陵】だが、基本的にはこの三人の物語である。この三人は、まったく違う人生を送るのだが、李陵を起点として交錯する。格調高い文章というものを、この【李陵】を読んで、こういうものかと感じ入る。


伍 森鴎外阿部一族
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小生は、未だに【阿部一族】が、なぜ全滅したのか、その理由がわからない。何回読んでもわからない。【理不尽】の塊のような小説だ。東洋の倫理と西洋の合理主義の狭間に苦しむ当時の日本人の姿を表しているという解釈があるが、全然納得がいかない。なんだか、今の日本の姿がたぶる。小生は、今の時代に、日本に生まれたことを幸せと思っている。唯一、嫌なのが、【同調圧力】である。性に合わない。うまく説明できないが、【阿部一族】が、なぜ全滅したのか、その理由がわからないのは、【同調圧力】のせいかもしれない。なんか、よくわからない文章になった。


禄 志賀直哉【網走まで】
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ラストシーン、主人公は、汽車の中で知り合った女から2枚の葉書を預かる。葉書の文面を読んでみたいと思ったが読まない。預かった葉書をポストに投げ入れるとき、宛先をちらっと見る。ともに東京で、一枚は女の名で、もう一枚は男名であったと、物語は唐突に終わる。唐突過ぎる。まさしくカットアウト!
おいおいおい、読めよ、文面。気になってしょうがないじゃないか。えっ、志賀直哉よ!なんだよ、この終わり方。これが、志賀直哉だ!【小僧の神様】と同じだぜ!読者の関心を引き付けておいて、突然、投げ出す。古今亭志ん生の落語かよ。これが、志賀直哉だ。後は、読者の想像力にお任せって感じ。想像力ない読者は、どうしたらいいんじゃい。嗚呼、志賀直哉、これが【小説の神様】称される所以か。【赤西蠣太】も捨てがたい。(小生の【銀鮫鱒次郎】の出自)、“無類の名文”と評される【城の崎にて】もいいが、ラストの、この気の持たせ方を考えると【網走まで】か。有無。
志賀の文章に惚れ込んだ芥川が、夏目漱石に「どうしたらああいった文章が書けるのか」と尋ねたところ、「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからだろう。おれもああいうのは書けない」と答えたとそうな。物語らしい物語がなく、平坦で退屈な、この【網走まで】が心に残るのは、そんなところか。志賀直哉の作為のない、自然で美しい文章は、文豪たちからも職人芸のように思われていたのだ。納得。


質 梶井基次郎檸檬
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檸檬」という漢字を知ったのは、この小説からである。読めるが、書けない。パソコン入力では書けるが、それを書けたとは言わないだろう。作者の梶井基次郎は、書けたのだ。有無。それだけで、たいした教養人である。小説の中では、次のシーンが印象に残る。

第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂においのいい蚊帳かやと糊のりのよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。

檸檬より、匂においのいい蚊帳かやと糊のりのよくきいた浴衣に心惹かれる。小生も当時の梶井同様、体が弱くなっている証か。31歳の若さで、肺結核逝く。生前は、文壇のその才能を認められることもなく、死後にその評価が高まる。中島敦といい、文豪の諸君は、このパターンが多い気がする。しかし、肺結核とは怖い病気だ。この病で多くの作家が逝っている。小生の祖父も肺結核で逝った。そんなこと関係ねぇか。


鉢 国木田独歩【武蔵野】
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小生は、大学時代の四年間、田無市(現在の西東京市)の学生寮で過ごした。当時は、すでに宅地化が進んでいたが、まだ、そこかしこに、武蔵野の雰囲気が残っていた。近くには、その面影を残す「小金井公園」があった。武蔵野の魅力は、国木田独歩曰く「雑木林」。まさにその通り。雑木林の中で、吹き渡る風の音を聞くのは、至福の時だ。手に、スコッチのポケット瓶があれば、なおいい。

自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦そよいだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語ささやきの声であった。

やや少し長い引用になった。


久 井伏鱒二山椒魚
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突然、映画の話である。映画【ティファニーで朝食を】は、冒頭シーンを見るだけで充分である。早朝、イエローキャブに乗って、オードリーヘップバーンが来る。手に紙コップの珈琲と紙袋を持っている。バチバチのドレス姿。店の前で珈琲を飲み、紙袋からクロワッサンを取り出し食べる。食べ終わると、ゴミ箱に紙袋を捨て、去っていく。このシーンだけで、「ティファニーで朝食を」のすべてを物語る。さて、小説。冒頭の「山椒魚は悲しんだ」。この一行で【山椒魚】のすべてを物語っている。以降の文章は不要だが、それでは、小説の形態を成しえないので存在するだけだ。山椒魚が悲しんだ小説なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。井伏鱒二の天才性を感じる。なんとも見事なものだ。小説は、最初の一行が勝負の分け目、井伏はその本質を提示した。
不思議なのは、カエル君は、空腹で死にそうなのに、山椒魚は平気だ。一体、何を食べていたのだろう。まぁ、いいか、そんなこと。小生が、山椒魚の立場だったら、完全に気が狂っている。まぁ、いいか、そんなこと。


拾 川端 康成【伊豆の踊子
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冒頭が有名だが、秀悦なのは、ラストシーンである。川端 康成は、薬物依存症であったらしい。我々がよく見る、目をカッと開いた川端のポートレート。あれは、絶対に薬中の表情だと、薬中の輩が言っていた。なんとなく納得。それは、踊り子と別れた後の船中のラストシーンが物語る。

「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、
その後には何も残らないような甘い快さだった」。

かの薬中の輩の言葉、「あの文章は、薬中しか書けない。一発決めた後の状態だぜ!」と、有無、そんなものか。薬をやったことの経験がない小生にとっては、ウソかホントか、わからねど。
仮にそうだとすれば、薬中のノーベル賞受賞作家が書いた、教科書にも掲載された、覚醒剤使用後を暗示させるエンディングの作品ということになる。

小生、はてなブログ「お題」初投稿。どないだ、イケてるか、ダサダサか。キッチリ5000文字。