どんこのアル中 日記

名古屋在住の【年金生活者】。方丈記&徒然草。

信長の罠にはまった義元。本当かもしれない。【桶狭間の戦い】


【どうする家康】第四回「清須でどうする!」で、ムロ秀吉が語る、【桶狭間の戦い】。奇襲作戦が成功したのではなく、信長の計略だったいう説。あながち、フィクションでないかもしれない。

考察を進める。大高城を信長軍が取り囲んだという事実。現状では、「鷲頭砦」「丸根砦」の2か所しかないと思われているが、この2か所では、大高城を囲んだことにはならない。南側ががら空き。実は、この南側に「向山砦」「正光寺砦」「氷上山砦」なんと3か所も砦があったのだ。信長公記には「鷲津砦」と「丸根砦」しか記載がなく、「向山砦」等は伝承レベル。

義元の進軍も、上洛のためとされているが、実は、兵糧攻めに苦しむ大高城を救うためであった。【桶狭間の戦い】前日に義元は、すでに大高城に入って一泊。戦い当日朝、漆山に陣を敷き、「鷲津砦」と「丸根砦」の2つの砦を攻撃させて大高城解放作戦を成功。勝利後は三河に向かって勝利の凱旋撤退を決める。高根山、おけはざま山と退いていく中、突然の暴風雨に見舞われ、嵐に紛れて近づいてきた信長に奇襲され、首を撥ねられる。地元名古屋の郷土史家による【桶狭間の戦い】の新説。これによれば、ムロ秀吉の説明にも納得。すべてが信長の計略とは、思い難いが、大高城を力攻めにしなかったのは事実である。たまたま、サイコロの目が、信長有利に出たのである。
一般に言われる「強大な今川 対 弱小の織田」は完全にNG。当時、清須には武器工場があり、信長の長槍部隊は強力で、強大な軍事力なを持っていた。さらに津島、熱田の港での交易、瀬戸焼の輸出などの織田家の経済力も高かった。さらには濃尾平野での農業生産力も高かった。織田家は決して弱小ではなかった。これは事実。
当時の清須VS駿府は、現代の名古屋VS静岡であったかもしれない。(静岡の人に失礼か?)

大高城の城跡は、意外と広い。わりと近所あるので、何回かでかけたことがある。なにもない城跡でぼんやりする。高台にあるので眺望がいい。家康の時代は、海が、城のすぐそばまで迫ってきていた。それはそれは、素敵な眺めだったに違いない。