どんこのアル中 日記

名古屋在住の【年金生活者】。方丈記&徒然草。

中川勝彦のおもひで ~東宝創立50周年記念作品「海峡」最終オーディション~

中川勝彦


中川勝彦と会ったのは、東宝創立50周年記念作品「海峡」の最終オーディション会場。
     
       

「海峡」 その名前を耳にするたびに、ほろ苦い記憶がよみがえってくる。「八甲田山」で日本映画歴代配収新記録を打ち立てた、森谷司郎監督の作品。「10万年前に、マンモスが歩いて渡った道を、もう一度作る」、青函トンネルの工事に従事した国鉄技師の物語。高倉健吉永小百合森繁久彌三浦友和など豪華な出演陣。加えて、全国的に大規模な新人オーディションを開催。約6000人の男性の中から中川勝彦、約12000人の女性の中のから青木峡子の2人を選んだ。
紅顔の演劇青年だった私は、このオーデションに応募した。6000人の一人だった。当時、「東宝シナリオセンター附属俳優養成所」で役者をめざし、演技の勉強をしていた私には、願ってもいないチャンスだった。
書類選考、第一次審査、最終審査。最終審査は、日比谷にあった東宝の本社ビルで行われた。あいまいな記憶を探れば、10人程が残ったと思う。その中に、俺と中川勝彦がいた。
彼は、10人の中で別格だった。俺は、それまであった男の中で一番かっこよかった、気がする。オーラが違った。彼を見た瞬間、わかった。もうオーディションは、彼で決まっている。それ以外の者は、オーディションの体裁を保つための当て馬的存在である。
後から知ったのだが、彼はすでのこの時、ヴィジュアル系アーティストして活動していた。

最終審査は、森谷司郎監督との直接面接である。監督の後ろには、たくさんの人がいた記憶だけがある。後はよく覚えていない。
最後に監督が「何か質問は、ありますか」と聞いた。私は、どうせ中川勝彦に決まっているなら、なんとか爪痕を残し、それが別の役での出演に繋がるかもしれないと甘い期待を抱き、兎に角、目立つことだと思い、質問した。
「監督は、『スタニスラフスキー・システム』をご存じですか」と聞いた。一瞬、監督の表情が歪んだ。
「そんなこと、映画と関係あるか」と、あたりがびっくりするくらいの大声。嗚呼あかん、失敗した。別の役なんぞ無理だ。どうせ、落ちるんだからと思うと、俺の口は止まらない。
「『戦艦ポチョムキン』を見たことはありますか」と追い打ちをかけた。
「もう、いい」と最後通告。
「あ、見たことないですね。信じられない」と、私の捨て台詞。見事に決まる。
 監督は、席を立つて、部屋を出ていった。
私は、「お帰りください」という係員の言葉にしたがって、退席されられた。途中、小便がしたくなりトイレによった。このトイレがスゴイ。小便器は、やたらでかく、なんだか大理石のようにも見える。俺が、小便をしていると、後から男が一人入ってきて、俺から一番遠い小便器の前に行った。

高倉健であった。

健さんが、小便をしながら、俺の方を見て
「あんまり、あんなこと言わない方がいい」と言った。俺は、頭に血がのぼっていたので健さんに向かって信じられないことを言った。
「うるせい!明治」健さん明治大学卒なのだ。一瞬、健さんの顔がきつくなった。俺は殺されるのではないかと思ったが、健さんは何事もなかったように、手を洗い出て行った。
俺は、おちんちんを出したまま、しばらく呆然としていた。あまり遅いので係員が来て、エレベーターに乗せられた。エレベーターを降り、しばらく歩いていたら、後ろから声をかけられた。
「あんた、すごいな」
中川勝彦であった。俺の傍若無人な振る舞いが、お気に召したようで、少し話をしたいと言う。別段断る理由もなかったので、二人でビルの1階にあったフルーツパーラーに入った。なんだか俺には、不似合いの場所であった。
 『スタニスラフスキー・システム』は、ロシアの演劇人が提唱した画期的な演技論であること、『戦艦ポチョムキン』はエイゼンシュテイン監督による、映画史上に残る大傑作で、映画を志す者なら、必ず見ておく作品であることなど、中川勝彦に教えた。彼は、ふ~んと、つまらなそうに聞いていた。
 「森谷の野郎、あんなに怒るとこみると、『スタニスラフスキー・システム』を知らないし、『戦艦ポチョムキン』も見たことないんじゃないのか。だったら映画監督としては全然ダメだね、論外」と偉そうに私は言って、彼と別れた。彼とはそれっきり。
 翌年、映画「海峡」が公開された。大コケであった。本編で、中川勝彦の出演は、驚くほど少なった。後に、森谷監督と演技についてもめて、その影響であると知る。
中川勝彦は、私とのほんのひと時の会話を実践したのか。そうだとすれば、それは、俺とのささやかな「約束」であるような気がしてならない。

中川勝彦は、1994年白血病で、32歳で死去。あまりに早く逝き過ぎた。合掌。ちなみに彼の娘は、中川翔子である。