どんこのアル中 日記

名古屋在住の【年金生活者】。方丈記&徒然草。

3.11 【閖上】

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昔は、仙台空港の灯りなんて全然見えなかったが、
家が全部なくなって、今は、よく見えますわ。

タクシー運転手のこの言葉が今も耳の底に残っている。


閖上】は、「ゆりあげ」と読む。漢字ではない。日本で作られた文字で【国字】という。文字の由来は、江戸時代に仙台藩主がこの地に訪れた時に、この地区の名前を尋ねたところ、名前はないと言われたそうな。その時、寺の山門にいた藩主が海の方を眺めると水(海)が見えたので、門の中に水の文字を入れ、【閖上】とするようにしたということだ。平成23年3月11日、この水は閖上地区を襲う。【閖】(ゆり)という文字は、「揺れる」という意味があると知った時は、その皮肉さに、何とも言えない気分になった。

地理的には、仙台市の南にある名取市仙台空港の北にあたる。小生は、震災の津波の映像を初めて見たのは、この【閖上】地区だったと記憶している。どっかのTV局のアホなアナウンサーが「映画みたい」と、のたまわった所だ。

震災の三年後、小生は、この【閖上】を訪れた。当時、某大学の広報室に勤務していた小生は、学生たちが震災ボランティア活動するのに、朝日新聞が取材したいとおっしゃるので、学生たちに同行した。それまで、日光より北に行ったことがない(by前略お袋様)小生にとっては、初めての東北の訪問だった。

三年後だったが、その風景は衝撃であった。【閖上】地区を南北に「県道塩釜亘理線」が走っている。その東、つまり海側は、まったくの更地であった。学生に同行するのが仕事なので、自由な時間が結構あった。小雨が降っていたが、辺りを歩きまわった。古色蒼然といった雰囲気か。まだ、手つかずに折れ曲がったカードレールを見た時は、津波の威力をひしひしと感じた。海岸沿いは、復興が早くお店も営業していた。昼飯になんか食べたが記憶にない。北島三郎が来ていたらしい。歌をうたったわけでもないが。(余談)津波の脅威耐え、一本だけ残った桜が、【なとり復興桜】として、細々と植えられていた。その姿は、あまりにも心細かった。海岸近くに【日和山】という小さな山がある。標高は。6.3m。皮肉にも、この山は、【日本一低い山】。津波は、いとも簡単にこのを山飲み込んだ。小雨の中、海は穏やかだった。

先に述べた「県道塩釜亘理線」が明暗を分けた。道路の海側にあった名取中学校は14人の犠牲者がでた。道路の西側にあった名取小学校は、犠牲者ゼロであった。県道が防波堤の役目を果たしたらしい。小学校周辺は、更地ではなく、家が建っていた。なんとなく覗いてみて、びっくりした。家の中は、空っぽであった。建物だけが残っていた。犠牲者がでた名取中学校は、入る事ができたので中に入った。震災時のそのままだと中学校の前にあった案内施設で教えられた。なんというか、机、椅子が散乱し、コンクリートの壁も剝がれ落ちいた。何とも言えない。案内施設で当時の映像を見せてくれた。中学校の脇に名取川が流れており、この川を津波が逆流して、被害が大きくなったということだった。校門の前に14人の慰霊碑が建っていた。14人の名前が刻まれている。小生は、その名前のひとつふとつに触れた。「これから、楽しいことがいっぱいある歳なのに」 感傷的か?

同行取材を終えた夕方、仙台空港に行こうとしたが交通機関がわからない。諸事情で俺は一人だった。どうしたものかと思っていると、震災当時、大渋滞を起こした閖上大橋の手前の五差路の近くに、タクシー会社の明かりがぼんやり見えた。これぞ、天の助けとばかりに、門を叩いた。タクシーは駅前に待機していることなので30分くらい待ったが、無事、仙台空港に到着した。タクシーの中で運転手が言った言葉が今も忘れられない。

昔は、仙台空港の灯りなんて全然見えなかったが、
家が全部なくなって、今は、よく見えますわ。

合掌